ボクシングの試合から逃げたい想いが作った、左脳と右脳の間にある1mmの溝。
ふと、高校時代のことを思い出したので書こうと思う。
量子力学をよく理解してから今思うと、自分の意識や想いが現実を創り上げたわかりやすい事例だ。
感傷的に言えば、辛いことから合法的に理由を作って逃れた、ほろ苦い思い出。
私は高校時代はボクシングをやっていた。
小中は野球部で団体競技をやっていたのだが、高校に入ってから自分の一人の力を試してみたくて、ボクシング部に入った。
私の地元は高校ボクシングが盛んで、全国大会常連校がたくさんあった。
階級は54kgのバンタム級。
平時の体重が60kgだったので、毎回6kgの減量をしなければいけなかった。
減量は体の調子が本当におかしくなる。
満腹中枢が壊れるので、減量の後はとにかく食べるのが止まらなくなる。
2つ上の先輩は、試合後にマクドナルドに行って、3人でハンバーガーを56個食べたと言う伝説的な記録を残した人がいる。
それだけ減量はきつい。
いまでこそ、水抜きといったテクニックも存在するが、当時はインターネットの黎明期。正しい減量方法という情報が遍在していなかったので、試合前はとにかく食べない、そして、とにかく動く、これしかなかった。
そして私は、1ヶ月かけてコツコツ減量するというのができない性格である。
いつも10日前くらいになって、「やべ、体重落とさなきゃ」と必死に落としたものだ。
1週間ご飯も水もほとんど取らずに運動しまくれば、6kgくらい落ちるものであるが、急に体重を落とすと水分不足で肉離れがおきたり、つった足が戻らなくなるという副作用に見舞われる。
1年生の冬の新人戦は、準決勝でつった足が戻らなくなり棄権した。
でも少しホッとした自分もいた気がする。
次はかっこ悪いところ見せられないと思ったので、それからたくさん練習した。
格上大学生とのスパーリングも毎日こなした。
県外遠征では、新人戦の全国大会優勝者をKOして勝ったこともあった。
ただやっぱり試合は緊張するし、負けるのも怖かった。減量もしんどかった。
そして2年生の秋。
一番大切な試合が始まる季節である。
県内の高校が一堂に会する練習試合中に、一人の選手が倒れた。
かなりパンチをもらっていたのだが、無理して試合を続けたのだろう。
そして、運ばれた先の病院で亡くなってしまった。
ひとつ統計データをもってくるが、ボクシングは、柔道など他の格闘技に比べると死亡率や障害率は低いスポーツである。
にも関わらず、目の前で人が倒れ、亡くなってしまったのは、当時アホな高校生だった私の心にも複雑なざわめきをもたらした。
この事件がきっかけで、選手全員はCTスキャンが義務化されることになった。
高校側としても無策で同じような事件が起こった場合に申し開きができないので、いちおう何か対策してましたという既成事実化のためのCTスキャン義務化である。
仲間と一緒に病院に行き脳のCTスキャンをとった。
すぐに医者に呼ばれた。
「右脳と左脳の間に1mmの溝があります。
脳内出血が起きやすいと言われているので今後試合には出れません。」
それからボクシングの試合には出れなくなった。
2年生の冬の出来事である。
現実感がなくて、しばらくフワフワした感覚だったのを覚えている。
同時にホッとしたとも思う。
なぜなら、もう辛い減量も、試合で負けることも絶対にないからだ。
意識は世界を作るという量子論が腑に落ちた今なら言える。
この左脳と右脳の間の1mmは、自分の意識がつくったものだと。
試合に負けたくない、負けたらどうしよう、減量辛い、したくない、という強い想いが、合法的に試合から逃げる理由を生み出したのだと言える。
仲間やコーチからは、本当に残念だったねと同情してもらえた。
そしてもう試合に出なくても良くなった。
今となっては、ほろ苦い青春の思い出。
悲劇や不幸が起こる時、全ての原因は自分の意識である。
少なくとも、意識が世界を作ると言う量子論の世界では。
自分監督が、主役である自分自身に悲劇のヒロインという役を演じさせているだけである。
自分って可哀想でしょ、不幸でしょ、同情してよ。
でもそれ、全部自分が創ってるんやで?
自分自身が創っていることを直視しない限りは、その悲劇や不幸は再び起こる。
直視できたら、、自由だ!