国によって虹の色の数が変わる。言語は世界をつくる。
最近、東京のシェアハウスで一緒に住んでいたベストフレンドのイギリス人が、日本人の女性と結婚するということで、結婚保証人になってきた。
めっちゃ嬉しかった♪
さて、30歳手前で、カナダにギリギリのワーホリに出かけてから数年。
もともと言語の才能が乏しいので、とっても苦労したが、数年かけて英語がぺらぺらになった。
英語を思考に取り入れるようになってから、性格や考え方も少し変わった気がする。
英語を話すときは、相手が外国人であることも多く、バックグラウンドも違えば、お互いのことを全く知らないという状況で、本当のコミュニケーションが求められる。違う価値観を持った相手をリスペクトし、自分のことや意見もはっきり伝えることが求められる。
さらに、
Agree to disagree(あなたが反対意見をもっていることに同意する)
Straight to the point(端的に話す、話せ)
といった日本語や日本文化には存在しない概念も、英語を学ぶことで自分にインストールされた。
言語が性格や考え方に影響を及ぼすことは実際に自分で体験したことなのだが、さらにいえば、言語が人々の世界に対する認識に影響を及ぼしているのではないか?という仮説を持つようになった。
なんでこの話をするかというと、外国人と虹の話をしていたときに、ふと気づいてしまったのだ。
それは、英語圏の人にとって、虹の色は6色であると。
日本人にとっては、虹は7色という認識が普通だけど、それは世界の常識ではなかったのだ。
この記事では、虹の話を始め、言語や価値体系が、世界や認識を創り上げるについて深掘りしていく。
目次
言語が世界を作る例
いくつか面白い例を探してきたので共有する。
国(言語)ごと虹の色の数が違う
各国の虹の色をまとめてみた。
我々の育った日本やオランダでは、赤、オレンジ、黄色、緑、水色、青、紫の7色。
これは、ニュートンが300年前に定義したスペクトル分析に基づいていると言われている。彼は、もともと5色で虹を認識していたっぽいけど、音楽の7つの音階にあやかって無理やり7色と定義したなんていう逸話もある。
外国人の友達に虹の数を聞いてみたところ、
カナダ人は7色、イギリス人は6色と答えた。
必ずしも、英語の中で6色と規定されているというわけではないらしい。
台湾に至っては3色!
台湾人の友達がいないので裏が取れないけど、そういう認識なのかな。
ちなみに、時代によっても虹の数は変化する。
江戸時代の浮世絵を見る限り、虹は3〜5色くらいだったみたい。
面白いのは、浮世絵師によって数が違うこと。おそらくインターネットも何もなかった時代なので、虹の色の感じ方は人それぞれ、自由だったのかもしれない。
江戸時代は自由な認識だったのが、大正時代〜戦後あたりで、日本における色んな価値観が変化していて、そのタイミングで7色になったのだと思う。
余談だが、北極圏に住むエスキモーは、10色くらいの白に名前があって、それを見分けるらしい。
日本人にしか聞こえない?虫の音
言語というよりも、文化や価値体系が、認識に影響するという話。
東京医科歯科大学の角田忠信教授が、1987年1月にキューバのハバナで開かれた第一回国際学会「中枢神経系の病態生理学とその代償」に参加した時の事である。キューバではいまだ戦時体制が続いており、西側諸国からの参加者は角田教授一人だった。開会式の前夜に歓迎会が開かれ、東欧圏から大勢の科学者が参加していた。キューバ人の男性が力強いスペイン語で熱弁をふるう。
しかし、教授は会場を覆う激しい「虫の音」に気をとられていた。なるほど暑い国だな、と感心して、周囲の人に何という虫かと尋ねてみたが、だれも何も聞こえないという。教授には「蝉しぐれ」のように聞こえるのに!
午前2時頃、ようやくパーティが終わって、キューバ人の若い男女二人と帰途についたが、静かな夜道には、さきほどよりももっと激しく虫の音が聞こえる。教授が何度も虫の鳴く草むらを指して示しても、二人は立ち止まって真剣に聴き入るのだが、何も聞こえないようだ。不思議そうに顔を見合わせては、お疲れでしょうからゆっくりお休みください、というばかりであった。
日本語人の脳: 理性・感性・情動、時間と大地の科学
教授は毎日、この二人と行動をともにしたが、3日目になってようやく男性は虫の音に気づくようになった。しかし、それ以上の感心は示さなかった。女性の方は、ついに一週間しても分からないままで終わった。どうも日本人の耳と、外国人の耳は違いがあるようだ。
日本人は、鈴虫などの虫の音を「虫の音」という価値体系を用いて認識している。日本人が虫の音を聞くときは、左脳が働き、言語として認識しているそう。
一方で、他の言語圏の人が虫の音を聞いても、そもそも認識しにくいのだそう。
ちなみに、日本に7年住んでいるゲイのカナダ人の友達に、虫の音が聞こえるか?と質問したら、「あー聞こえるよ」って言ってた。まじか。
ゲイだから感性が豊かなのか、好きなものは「ポン酢と柚子胡椒」と言うくらい日本に馴染んでるから、聞こえるようになったのか。
今後、幼少期に虫の音が聞こえたかインタビューしてみよう。
過去形・未来形を持たない南米アマゾン川の部族
アマゾンの奥地に、ピダハン族という300人くらいの少数部族が存在している。
彼らは、300年ほど前に菌を求めてやってきたポルトガル人と接したことがあるのみで、外からの影響を拒んで生活してきた。
日本では、2012年にダニエル・エヴォレット著の「ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観」が翻訳されて、2014年にNHKで特集されたらしい。
この番組によると、ピダハン語の文法には、再帰が無いという面白い特徴があり、つまり過去も、未来も(文法的に)無いらしい。
そのため彼らは「将来への不安も過去の後悔もなく」現在に生きていることになる。
言語学者によっては、意見が分かれるらしいけど、仮に自分たちの言語体系に、過去形や未来形がないのだとしたら、果たして彼らは昨日と今日と明日をどう生きているのだろうか。
スペイン語が母国語の人、めっちゃ適当
これは偏見と言われるかもしれない。
でも私は、メキシコ、キューバ、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、エルサルバドル、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ペルー、ボリビア、チリを数ヶ月間プラプラしてきて、その経験に基づく感想である。
コロンビアでは、そのスペイン語の精神・世界観を自分にインストールすべく、スペイン語の語学学校でスペイン語を学び、コロンビア美女とデートをしたり、路上のベネズエラ難民にインタビューをしたりしてみた。
スペイン語圏の国、そこに住む人に総じて言えるのが、いい意味でみんな適当!
そして、みんな逞しく、自己肯定力が高く、人のことを気にしない。
・デートに1時間遅れてきても、悪びれもなく、ごめんとも言わない笑
・バスは、時刻通りに来ない。
・観光客に値段をふっかけるのは普通。
・初めての人にもフレンドリーで、よく笑う。
スペイン語が母国語の人はよく「No importa!」と会話の中で使う。
英語綴りに直すと「No important」。
意味的には、
英語で言うと、「I don’t give a shit」
日本語で言うと、「ま、どーでもええやん」
ってニュアンスの言葉。
悲しいこととか、辛いことがあっても、
「No importa!」「No importa!」をひたすら連呼するのだ。
ちなみに、スペイン語圏の自殺率を調べてみた。
10万人あたり、
4.9人(ペルー🇵🇪)
5.2人(メキシコ🇲🇽)
7.2人(コロンビア🇨🇴)
8.7人(スペイン🇪🇸)
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15.3人(アメリカ🇺🇸)
18.5人(日本🇯🇵)
出典:各国の自殺者リスト – wikipedia
スペイン語圏の自殺率は日本の半分以下。
No importaという言葉に象徴される価値体系が、こうした数字に繋がっているのだと思う。
言語や価値体系は世界を形作る
言語や価値体系が、世界を、認識をつくっているという例を挙げてきた。
我々の世界の見方といういうのは、言語や文化に内包される観念体系に大きく左右されているということだ。
しかしながらそれらは、万人にとっての当たり前とは限らない。
自分の価値観は、果たして本当に自分の内側から出てきたものなのか?
それとも、誰かの作った価値観を盲目的に是としているだけなのか?
特に日本では、まだ社会や他人の価値観の中でがんじがらめになって生きている人が多い気がする。
盲目的にブランド物っていよね!と思っている人や、タワマンに住むのがステータス!みたいに語る人は、そういうタイプの人間の典型である。
もちろん、そういう乗せられている人たちのおかげで経済がまわっているという側面もあるし、本人が幸せならそれでもいいと思う。
しかし、私個人としては、盲目的に宗教にのめり込む人と同じに見えてしまう。
それが良い悪いの話ではなく、私はそういう人たちが面倒臭くて嫌いというだけの話である。
そしておせっかいかもしれないが、いらない価値観をぶっ壊して、自分のオリジナルに再構築してったら、もっと自由に楽しく生きられるのになぁと、思ってしまう。
虹の色は、5色でも、10色でもいいんじゃない?