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2020.09.07 Mon
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イスラム、ユダヤ、カトリック、東方正教が乱立するサラエボでは、人々は死後、どの神に会うのか?

2017年夏の旅では、東ヨーロッパの8ヶ国を歩いた。

バカンス気分で過ごしたクロアチアの後にふと足が向かったボスニア・ヘルツェゴビナ。

ガイドブックも持っていなかったが、本当にただなんとなく、行ってみよう、行かないといけいない、そんな感覚だった。

カナダに住んでいた時に、セルビア出身の友達が、小さい頃にボスニア紛争でクロアチニアに難民として住んでたんだよね、そんな話を聞いていたのが残っていたのかもしれない。

クロアチアのドブロブニクからバスに乗り、サラエボに向かった。

この記事を書こうと思った理由

無計画で向かったサラエボだったが、考えさせられることがたくさんあった。

その中の一つが「宗教が意識に与える影響」である。

多くの日本人がそうであるように、私は無宗教、正確にいうと多宗教である。

小さい頃は七五三などの神道行事に参加し、日常生活ではクリスマスやハロウィンといったキリスト教行事を楽しみ、死ぬときだけは先祖代々の墓に入るので仏教、という典型的ないいとこ取りの日本人である。

だから宗教の経典で語られている神や仏は、信じていないというか、興味がない。

ただし、私自身、目に見えないものを感じることも多く、その中には神っぽいエネルギーのものが混じっているときもある。

なので、いわゆる神道で語られる八百万の神的なものが存在しているということは自分の感覚を通じて確信はしている。

今では自分の感覚のみを信じているのだが、小さい頃、若い頃は、宗教で語られる概念にもう少し影響されていた気がする。

例えば、昔おじいちゃん、おばあちゃん、親に教えられた、「三途の河」。
日本人が死ぬ前に見るというあの川である。

生死の淵を彷徨った人が、三途の河を渡る前に帰ってきたという話は誰もが聞いたことがあると思う。

しかし幼心に、「じゃあ、片親が日本人、片親がキリスト教の、ハーフの子は、三途の河を渡るのかな?」と思っていた記憶がある。

その話がサラエボに繋がる。

紛争の爪痕が残るサラエボ

サラエボは30年前の部族闘争からはすでに立ち直っていて、いまは観光地として栄えている。

しかし、街を歩けば壁に銃痕が無数に残り、内戦の激しさ、悲惨さをいまでも感じる。
泊まった宿の壁にも残っていて、ここで銃撃戦が起きていたのかと思うとゾッとした。

メインストリートの名前は、スナイパーストリートだ。
紛争時代は、ここを歩く人は問答無用でヘッドショットされて殺されたということから付けられた名前だ。

第一次世界大戦の引き金となった、オーストリア皇太子殺害事件の舞台でもある。

空気は全体的にどよーんと暗い感じ。
あまり気持ちのいいエネルギーではない。

そういう悲しい定めを持った土地性なのかもしれない。

街を歩くと、シーシャカフェがあったり、でもイスラムで禁止されている豚肉を出す店もあったりする。

顔を出している女の人も言えれば、ヒジャブを被った人もいる。
イスラムの中でも厳しい戒律の女性は、目元しか出せないヒジャブを被っている。

一人の女性が、露天でアイスクリームを買っていたので、どうやって食べるのかを観察していたのだが、わざわざ左手で口元の黒い布をずらしながら、とても食べにくそうだったのが印象的だった。

街ですれ違う人は、本当に多種多様な人種だ。

サラエボに乱立する4つの宗教

サラエボには、4つの宗教が乱立している。

カトリック、東方正教会、ユダヤ教、イスラム教だ。

カトリックと東方正教会の違いは正直よくわからないのだが、ユダヤ教の教会であるシナゴーグとイスラム教のモスクが狭い街の中にAll in Oneで揃っているのは、世界でもここだけなんじゃないかと思う。

ぷらっと入ったカフェで、地元出身のカフェ店員アナに出会ったので、いろいろインタビューしてみた。アナは美人で坊主、副業は絵描きというアーティストだ。年齢は27才と、内戦後の生まれだ。

内戦はあくまでも、祖父母、親世代の出来事であると、少し引いた目線で語ってくれた。

シンガーミシンの網脚でつくったテーブルがイカしてる。アナのセンスが光る。

アナによると、民族的にはクロアチア系、セルビア系、ムスリム系の3民族に別れるのだそう。

カトリックを信じているのがクロアチア系、東方正教会を信じているのがセルビア系、イスラムを信じているのがムスリム系というふうに、宗教と部族がセットになって区別されるらしい。

ジューイッシュ(ユダヤ教)について聞くの忘れてた。

30年前のボスニア紛争は、親戚でも宗教が違えば殺し合ったらしいが、結局のところ民族対立であり宗教対立の内紛だったらしい。

アナは内紛後に生まれた人なので、あまり民族の違い、宗教とかは気にしていないらしい。自分の感覚で生きてるアーティストってのもあるかも。
コーヒーと絵があれば幸せと言っていた。

きっと宗教に縛られていないアナは死後、神には会わずに、宇宙のエネルギーへ帰っていくんだろうな。

宗教の教えが人工的な天国を生み出している

サラエボで4つの宗教寺院を訪れて、アナに話を聞いてあらためて感じたのは、宗教という既成概念は世界の多くの人にとっていまだに大きな影響力を持ち、自己や部族のアイデンティティの核となっているということだ。

特に、理不尽な死が身の回りに存在していた時代に生まれて進化してきた宗教は、死生観について語っているものがほとんどだ。

現世は辛いかもしれないけど、神を信じれば死んだ後は天国に行ける。

カトリックだったら、死んだ後は天使のいる天国へ行けるという教えが経典の中に概念として組み込まれているので、カトリック信者が死後見るのは、四大天使の待つ天国なのだろう。

ユダヤ教では、四大天使+ウリエルになるかもしれない。

でも、その天国は人々の共通無意識によって造られた世界だと思う。

量子論的に言えば、多くの人々が信じれば、その共通意識が現実を作ることになる。

都市伝説だが、ニトログリセリンが結晶化するという認識を人々がして以来、ニトログリセリンは比較的に安定して持ち運べる物質になったという。

東京のジュリアナで、ミラーボールが落ちて人々が下敷きになって死んでしまったのは、「ミラーボール落ちたら嫌だな」っていう認識が、「ミラーボールは落ちない」って認識を上回ったからに違いない。

飛行機は、人々が飛ぶと思っているから飛んでいる。ボーイングの社員も、東大の物理学者も、飛行機はなんで飛ぶのかいまだによくわかっていないと言う。航空力学的に複雑すぎて説明できないという意味で話している人もいるが。

死生観の話に戻ると、あくまでも私見であるが、死んだら我々の肉体に入ったエネルギーは宇宙に帰るだけである。

そこに天使の天国も、三途の河も存在しない。
もしそれを見たという人がいるならば、宗教やおじいちゃんおばあちゃんから教えられた概念が、それを創り出したに過ぎない。

イスラム、ユダヤ、カトリック、東方正教が乱立するサラエボでは、人々は死後、どの神に会うのか?

確証はないが、このサラエボの旅を通じて、人々がそれぞれ信じている神に出会う、でもそれは人工的に意識で生み出された世界というの確信を得た。

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